日本泳法

むかいりゅうとうきょううえのもんかれんらくかい

向井流東京上野門下連絡会

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向井流の歴史について(上野門下における歴史認識として)

 向井流の伝承は、会津藩が文化7年(1810)三浦半島の海防警備を幕府から命ぜられたことに際して、藩士片峰勝興らが文化9年(1812)江戸に出向き幕府御船手頭向井将監から海防としての船の備えについて教示を受ける傍ら泳法を学んだことに端を発したと考えています。

 何故なら、会津藩では、向井将監配下で泳法を学んだ後、水業師範となった片峰勝興によって向井将監の元で学んだ泳法に会津藩で伝承されてきた泳法(天竜川の泳法など)も混じえて藩独自の泳法を編纂したことが考えられ、その編纂されたものが“水泳書”であり、それが今日の伝承における根幹と考えられるからです。

 “水泳書”が編纂された背景には、会津藩の水練修得の等級(『会津藩教育考』「初心・仲位・老巧・許・印可」)に合わせたことも考えられます。

 この会津藩の‘向井流’は、会津藩士笹沼龍助(良助の呼称もあり)が天保14年(1843)に佐倉藩に召し抱えられたことで、佐倉藩での向井流伝承へと繋がりました。

 佐倉藩士となった笹沼龍助は、会津藩水術師範高津助之進より伝書“水泳書”の写筆を許され、この伝書に基づいた修練の等級(『佐倉藩学史』に「平水目録・浪越目録・飛潜目録・免許」とあり)とし、“水泳書”に手を加えた内容へと発展させています。これが、今日残されている『向井流水法秘伝書 完』であると考えます。

 佐倉藩での向井流の伝承は、文久3年(1863)、笹沼龍助死後、二人の師範が立ち、それを経て龍助嗣子笹沼勝用が引き継ぎました。

 佐倉藩士笹沼勝用は、明治4年(1871)7月の廃藩置県後、東京に出て向井流水泳場を日本橋浜町1丁目に開設しています。この開設年次には、明治4年(1871)と明治6年(1873)の説が見られ、実質開設年の特定に至れていませんが、廃藩置県後の東京における最初の水泳場開設と言われています。

 なお、笹沼勝用は、夏以外は柔術家として指導をしていたようです。

 現在の向井流の伝承は、東京で笹沼勝用が開いた水泳場の門弟たちの流れを汲むものです。

 以下、上記を前提として、上野門下に関わる歴史の観点から述べます。

 この時の門弟に、元佐倉藩士鈴木正家や柔術家大竹森吉らがいました。

 笹沼勝用は、明治23年(1890)、47歳で逝去したと推定されています。

 笹沼勝用の水泳場を引き継いだのは、鈴木正家でした。

 鈴木正家は、佐倉藩時代、笹沼龍助からも笹沼勝用からも目録を允可され、推定では明治2年(1869)に勝用から奥秘(免許)を伝授され、槍術にも若くして熟達していた人物でした。

 鈴木正家が、笹沼勝用の存命中に向井流の後継者となった可能性が高いと推測されます。

 また、鈴木正家は、笹沼勝用の水泳場を引き継いで水泳場を開設したのみでなく、明治27年(1894)に日本体育会游泳場の最初の教師となっています。なお、明治37年(1904)水泳場を、浜町1丁目から同2丁目に移設しています。

 鈴木正家が向井流の伝承者として授与した伝書は、明治20年(1887)から明治30年(1897)頃までの『向井流水法秘伝書 完』6件と明治28年(1895)9月の『向井流水法開伝巻』1件があり、現在も残っています。なお、『向井流水法開伝巻』の巻末には、鈴木正家が自ら研鑽してきた経験に基づいて独自で創作した伝書と述べています。

 さらに、出版本として、明治21年(1888)に『生徒必用向井流秘伝 水練早学 全』を明治29年(1896)に『游泳人必用向井流秘伝 游泳術伝習法』を上梓し、世に秘伝の公開と向井流を知らしめました。

 晩年は、同門の大竹森吉の水泳場に出張指導するなど大竹との親交も深く、大竹の水術と柔術の門弟であった上野正幸(本名 八十吉)宅に寄寓し、大正4年(1915)に享年65歳で客死しています。この上野宅寄寓時代には、上野正幸の嫡男上野徳太郎に向井流について語り教示を授けています。

 笹沼勝用の水術における弟子大竹森吉は、一代の達人と言われた戸塚派楊心流柔術家でもあったことから、柔術家笹沼勝用と柔術での繋がりもあったと思われます。大竹森吉は、笹沼勝用に向井流を学ぶ以前から藩で水術を修得した履歴があり、その能力に長けていたことが推測されます。その能力は、明治24年(1891)隅田川に‘笹沼流’と称して水泳場を開設したこと、晩年まで発揮された泳力にも現れています。

 大竹森吉は、嘉永5年(1852)生誕、昭和5年(1930)千葉で享年78歳の生涯を閉じています。

 大竹森吉の水術と柔術の門弟として現在明らかな人物としては、深井子之吉、上野正幸(柔術家としては八十吉)、亀崎忠一がいます。

 深井子之吉は、柔術にも水術にも長けていて、明治33年(1900)に戸塚派楊心流柔術と剣術の道場‘練武館’を開場し、翌34年(1911)の夏ごろより笹沼流の水泳場も開設したようです。水泳場の名称として明治43年(1910)当時の雑誌に「笹沼流深井練武館」の名前が見られます。また、明治末に帝国尚武会より柔術における初めて通信教育書2件の著述があり、大正9年(1920)に施行された‘第1回柔道整復術試験合格者’となった人物で、経営手腕にも優れた人物でした。

 上野八十吉は、柔術家として大日本武徳会柔道教士、戸塚派楊心流柔術師範で‘上野練武館’の道場の主でした。しかし、鈴木正家が大正4年(1915)に亡くなった後に、水泳場を引き継いで経営し、水術家としては“上野正幸”と称し向井流第14世家元の名乗りも上げています。この時、鈴木正家の子息鈴木次郎も向井流第14世家元の名乗りを上げたことが文献上から判明しています。

 亀崎忠一は、柔術と水術においても大竹森吉の後継者と目されていた人物で、大正初期に水術において‘大竹流’と名乗って向井流の道場を開設していた時期があったようです。まだ、不明点が多く今後の資料発見が待たれます。

 ここまでの流れを整理すると、笹沼勝用の伝承は、門弟の鈴木正家と大竹森吉に伝承され、鈴木正家の伝承は上野正幸に、大竹森吉の伝承は深井子之吉及び亀崎忠一へと継承されていったことが考えられます。そして、この伝承の流れが、上野正幸の嫡男上野徳太郎に継承されたのでした。

 上野徳太郎は、幼少の頃に柔術を父上野八十吉に学ぶ傍ら、水術を深井子之吉に学ぶとともに鈴木正家からも直接教示を受けて、向井流の伝承を今日に繋いだと言える人物です。

 上野徳太郎が伝承した向井流の伝承は、向井流東京上野門下連絡会で今日も継承されています。

 なお、現在、他所における向井流の伝承は、向井流水法会(小樽)、同帯広支部(帯広)、向井流山敷会(東京)、会津向井流水法会(会津)、川口水術練習所向井流保存会(川口)で、その伝統とともに息づいています。


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