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ラフウォーター in ヨロン '98

徳世敦子

その知らせを藤原さんから受け取ったのは、11月中旬だった。ラフウォーター・イン・ヨロンのご案内。フーン、ヨロン5kmか。えっヨロン? ヨロンてあのヨロン? 遠い昔、社会人になりたての初めての夏、給料3か月分をつぎ込んではるばると行ったあの島。空港なんてなくて、大きな船の入れる港もなくて、沖に停泊したフェリーから、はしけに乗り移って、そして降り立ったあの島。当時の私はほとんど泳げなくて、背の立つ所で水中めがねでのぞいた、あの最高にきれいな海。「こんな海で泳いでみたい」なんて強烈に思ったっけ。そのヨロン。「行くっきゃないじゃない」って誰かがささやいている。

かくして12月11日、寒い早朝の羽田を出発。鹿児島空港着。まだ寒い。ヨロンの空港着。「ぜんぜん暖かくないじゃない!」空はどんより曇ってるし、北東から強い風が吹いている。冷たい海で試泳する人たちを宇宙人を見るような目をして見てる私。参加者は全部で9名。ほとんどどこかの海で出会った人ばかり。同窓会みたいで楽しい。でも私は、水に足を入れるのもいやでした。明日は晴れるし、風もやむよという言葉を信じて眠りにつく。

翌朝、どんより曇り空と北東風がセットで居座っている。ガックリ。町長さんのホラ貝の合図でスタートするまで、ストレッチしかしなかった。文字通りぶっつけ本番のスタートでした。初めて体験するコンディション。不安を感じながらも最初のブイ(750m)を通過。なんとなく完泳できるかなって思った。でもそんなに甘くはなかった。次第に大きくなってくる波。泳ぎはじめてすぐしびれていた手足はとうに感覚がない。前に進んでる所を見るとどうやら泳いではいるらしい。口の中にさかんに海水が入る。きれいな熱帯魚を見ても感動しない。私、やばくない? 合図をすると船が寄ってきてくれた。「波大きいけど大丈夫ですか?」と聞いてくれる。私「ブイまであとどの位ですか?」「あと300m位です」2200m位泳いだのか。そして勇気ある決断(と森さんが言ってくれた)をしたのです。でも地獄はそれからでした。毛布のある本部船まで急いでとばしてくれたけど、その間、船の甲板でころがったままひたすらガタガタふるえてたら、釣られたまんまほったらかされてだんだん凍ってゆくわかさぎの気持ちがよーくわかりました。(死ぬかと思った)

浜へ連れ帰ってもらって、火の前にすわり飲んだコーヒーの美味しかったこと! 数分後、うす日の差しはじめた砂浜の椅子に毛布にくるまったまま腰掛けて仲間の戻ってくる海をぼんやり見ていた。「せめて折り返しまで、せめてあと100mでも泳ぎたかったのに。本当にもう限界だったの? ホントはもう少し泳げたのでは・・・」めずらしくくよくよする私。その姿が多分淋しそうだったんだよね。
「今日の記念に」
って巻貝の貝がらをそっと手渡してくれた島の観光課の池田さん。そして少し後に
「もしもあなたがもう一度この海で泳ぎたいと思ったらどうぞいつでも来て下さい。僕はあなたの為に必ず船を出して伴走します」
と言ってくれた。ジーンときた。泣けそうだった。完泳しちゃってたら聞くことはなかった宝石のようなこの言葉。リタイアもわるくはないじゃないって初めて少し思えた。何百人もエントリーする大会なら、私の名前に棒線引いて横にリタイアって書いて多分終わり。全部で9名だったから、たった1人の落伍者だったから、いろいろな方に気遣っていただけた。やっぱり私はラッキーでした。

帰る日、ぬけるような青空、まぶしい日差し。自転車に乗って少し島内を廻る。変わってない。私の記憶の中の島と変わってない。海も人も、そして私も。次回から季節を変えて開催されるこの大会。だから12月のこの海を泳いだのは最初で最後。3日間まるごとがこれからの私の中のヨロンの記憶です。泳いだ人数よりずっとたくさんの方々に大会を盛り上げていただいた。1人1人に感謝の気持ちが言えたらいいのに。またスタートラインに立つことが、そして完泳することが私の恩返しです。

Copyright(C)1998,1999 TOKUSE Atsuko.

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