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プロ 松崎裕子選手より
50号ですね。これからもがんばって下さい。

『初めての日の思い出』

 何でも物事「初め」がある。
「素晴らしい思い出」の場合もあるし「苦々しい思い出」の場合もある。私の「初めてのマラソンスイミングレース」の結果はどっちかというと
 「出来れば内緒にしておきたい」もしくは
 「誰も聞いてきませんように!」
という部類に属するであろう。胸をはって答えられるようなものではなかったからである。どちらかというと「哀れ度」が非常に高く、プロになった今では「なかったこと」にしてもらいたいぐらいである。

 初めてのレースは1988年イタリーの「カプリ〜ナポリ35キロレース」であった。驚くなかれ全くのマラソンスイミングの知識なしで参加した。それどころか海だって滅多に見たことがなかった。50メートルのプールでしか日頃泳いでいない人がいきなり「地中海」である。原っぱでしか野球をしたことがない人が東京ドームで野球をするのと同じぐらいの快挙である。暴挙であったかもしれない。地中海で初めて泳いだ感想は
 「波があるところでは楽に呼吸が出来ない!」
なにしろ波のあるところでの練習経験がなかった。「泳ぐ」という行為はプールと全く同じものであると思っていた。プールで十分に泳ぐ力さえあれば海で通用すると思っていた。マラソンスイミングなんて「水泳好きの娯楽」か「時間のある年寄りのスポーツ」であると半分なめてかかっていたということも白状しよう。勘違いも甚だしいとはこの事である。レース用に特に準備したものは「スポーツドリンクとバナナ」というものだけだった。あとは何も用意しなかった。日焼け止めもワセリンも用意しなかった。そんなのがいることだって知らなかった。
 「プールで速い=大自然の水なんかなんてことないよ」
だと確信していたのだ。

 そしてレース。スタートして1時間ぐらいは非常に元気があった。周りにも沢山の選手がおり「1人でも多くの選手を抜いて先に泳ぐ」ということに気を配っていた。ところがその決意も1時間半ほどして、危なくなってきた。胃袋がむかむかしだしたのである。
 「気分が悪い!」
そうだ!私は「船酔い」する子供であった。夏休み家族そろって船という交通手段を利用してどこかに遊びに行く等と言ったときは、必ず船の中は惨憺たるものになった。母も酔う。弟も酔う。私も酔う。酔わない父親が母子3人まとめて介抱するということは、ごく見慣れた風景だった。そして3人そろって死人のような顔つきになり「えらい目にあった!」とぼやき、よろけながら船を下り、その後ろを4人分の荷物を抱えた父がついてくるなどということは、あたりまえだった。大人になってこの手のイベントから遠ざかりすっかりと「船に酔う」ことを忘れていたのだが、泳ぎながらしっかりと思い出した。もう少し速く気が付けばこういう「泳いでいる最中に気が付いてあせる」という状況に陥らなかったであろう。

 泳ぎ初めて2時間ぐらいたったところで、もうどうにもならないほどのひどい船酔い状態になった。自分は泳いでいるので酔うことはないだろうと思っていたが、ところがどっこいひどい波酔いである。運悪く海の中にいるので車のように「途中下車」がきかない。海の波に揺られている間中ずっとこの波酔いの状態は続いた。補給食として搭載したバナナがまた「横揺れ」によくなかった。30分置きに吐き回った。どれだけ「やめる!」といいたかったであろうか。だが体力の方はまだ十分余力があった。経験のない私は「やめどき」さえもわからず、ずるずると泳ぎ続けた。今おなじ状況になったら、すかさず「ハイこれまで!」といってやめるであろう。あのときは「やめる」ことがわからなかったのである。

 殆どの選手が私の前方を泳いでいるのである。これが最高の屈辱であった。だが「吐き回る」私にとってはもう勝負なんてどうでもよかった。対岸にたどり着きさえすれば御の字であった。泳げど泳げど波酔いは改善されず、後半の4時間は何も食べずに泳いだ。それだけ気分が悪かったのである。背中には輝く太陽が容赦なく照りつけ、水に入っているにも関わらず背中が熱くなっていくのが泳ぎながらでもわかった。顔も日焼けで「ぼ〜」っとしている。目を開けるのも痛いぐらいの日焼けの進行状態である。全身は「トラックに両側から押しつぶされた」と表現して良いぐらいの圧迫感があった。ひどい筋肉痛である。口の中も塩水でぐずぐずになり、舌のつぶつぶもみんなひとつひとつが逆立ち、舌の感じが口の中で不快であった。

 何も食べれなくなってからすぐに、自分が海のど真ん中にいるにも関わらず、海の上でのどかに散歩する5匹のスピッツを見た。あきらかに幻覚である。雪山で遭難し、凍死寸前の状況に追い込まれた人などの話を聞くと「幻覚を見た」という人がいる。それと同じ状況である。その後色々なものが波間から現れては消えていった。コインロッカー・自動販売機・ペンギン・スーツケース・ポスト・・・もうちっとは「天使」とか「ミッキーマウス」とか「シンデレラ」等というファンタジックなものが見れなかったものであろうか。最期に近い瞬間に「コインロッカー」とは情けない。

 これほどマラソンスイミングが辛いレースだとは思わなかった。「え〜んやこ〜ら」に毛が生えた程度だと思っていた。参加する人達は「まぁ高校でちょっと泳いでいた」とか「ただの水泳好き」ぐらいのレベルの選手だとバカにしていた。水泳の800メートルの選手なら35キロを泳ぐのはいとも簡単だとたかをくくっていたのが、そもそもの間違いである。大自然に全面降伏した一日であった。レース後ふらふらになり、数人に支えてもらいながら地上に足をつけたときには120%の敗北感があった。目の前で他の選手がケロッとしレース中の出来事について楽しそうに会話をしているのである。それなのに自分は
 「難破した船から1週間ぶりに助けられた遭難者」
のように、ベットに横たわって、ただ目を開けているだけであるのであった。全身が日焼けし、その上に極度の筋肉痛と船酔いである。なんとか効きそうな薬はないかと涙ぐむほどであった。話しさえまともに出来なかった。「今までの中でどうしようもない状況は?」といわれたら、このときのことをすかさず答えるであろう。ふと横を見ると私より400メートルのタイムが遅い選手が、タオルにくるまれケロッとして椅子に座り、おいしそうにオレンジを頬張りながら、他の選手と話しをしているのである。ただただ悔しかった。
 「私より遅い選手に負けた」
この敗北の原因は
 「海?プール?水があることに変わりなし」
 「マラソンスイミング?そんなの簡単!」
という体勢で望んだことである。時として人は経験から学んでいくことがあるが、こんな経験はできるなら無しにしておきたかった。

 レースの終わった夜は、筋肉痛・日焼け・船酔いの豪華3点セットを体中に背負い込み、身動きできない状況だった。寝ても座っても歩いても、一向に状況は回復されず、「かろうじて息をしている」という表現がぴったりであった。気が付いたらその夜はトイレで便器を抱えて寝ていた。その後4日間はまともに食事がとれず、1レースで6キロ近く痩せた。やつれたというほうがぴったりとする表現であろう。目はうつろ、足は地についてなく、吐き回ったせいで、胸の筋肉も痛い。全身は日焼けで寝ることも座ることもうっとうしい。
 「なぜこんな目にあってその後もう一度レースにでようと思ったのですか?」
最初のレースで好成績をあげてしまったら、続けていなかったと断言できる。
 「な〜んだ。こんなもんかぁ〜。ちょろい!中年の娯楽!」
と軽く見てしまっていただろう。ところが大敗北・大屈辱・大失敗であった。踏んだり蹴ったりであった。泳ぎに行ったのか、酔いに行ったのか、疲れに行ったのか、病気しに行ったのかわからない状況であった。このままやめたら「ただの負け犬」である。次回は絶対に納得がいくようにしっかりと成功させ、支えなしで自分の足でナポリをしっかりと踏みつけたかった。

 これが第一歩である。これは本邦初公開の話しである。「初めての日の思い出」はあまりにも情けなかったので、今まで誰にもいっていなかっただけの話しであるが。

Copyright(C)1999,MATSUZAKI Yuko.

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