日本泳法

むかいりゅうとうきょううえのもんかれんらくかい

向井流東京上野門下連絡会

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師上野徳太郎について

 師上野徳太郎は、明治35年(1902)生誕、平成3年(1991)逝去。享年89歳。

 師は、幼少時代に父八十吉の指導で柔術を修行する傍ら笹沼流の深井子之吉より水術を修行したことに始まり、のちに自宅に寄寓していた鈴木正家より直接向井流の水術について教示を受けています。

 師は、運動が大好きで中学から大学時代には陸上競技を主としながら複数の運動競技でもその身体能力を発揮しています。この身体能力は、師が向井流を演じる中にも活かされていたことが推測されます。

 大学卒業後、毎日新聞社に入社しスポーツ記者として陸上競技や水泳競技などで活躍しています。その水泳競技での活動において、日本水上競技連盟との関わりが深くなるとともに、日本泳法及び向井流との関わりが高まったと思われます。

 それは、昭和15年(1940)第11回明治神宮国民体育大会での向井流演技の披露、昭和18年(1943)に著述出版された『日本の水術』に見ることができます。

 そのことが、戦後、昭和21年(1946)より日本水泳連盟常務理事着任や水泳指導者養成講習会の講師の歴任となり、昭和31年(1956)から日本水泳連盟主催の〈日本泳法大会〉で第1回から第21回まで資格審査委員主座の要職を務めるに至ったと考えています。

 一方、新聞記者と兼任で昭和25年(1950)に早稲田大学体育部講師の委嘱を受け、新聞社を退職した昭和39年(1964)よりは早稲田大学教育学部教授として体育管理や社会体育に関しての講義や水泳の実技の授業を担い、傍ら水泳部部長にも就任し、昭和47年(1972)に退職しています。

 この間には、水泳講習会の中で日本泳法と向井流を指導し、水泳に関する著述を残し、向井流の泳法を披露し、向井流についての論述も著しています。

 向井流の泳法の披露を代表することでは昭和39年(1964)の〈オリンピック東京大会記念日本泳法演示会〉で向井流の抜手を演じたことがあり、向井流に関する論述では『新体育』に昭和43年(1968)に発表した「向井流水法というもの」があります。

 師が早稲田大学教授を退職した後は、東京都内で向井流を主として指導する伝承活動を晩年まで行っています。この活動によって、向井流の後継者と人材を多く育て、現在の向井流東京上野門下連絡会へと引き継がれる礎を築かれました。

 師の教導は、自身が培ってきた向井流の泳法や知識のみならず日本泳法全体に及ぶものでした。

 そこでは、独自の向井流観や日本泳法全体の視野から伝承されてきた泳法が時代の進展に伴って新しいものや他流派の泳法技術など採り入れた泳ぎ方へと工夫改良が重ねられてきたことなども述べ伝えています。また、ひとりひとりにその人の目的にあった日本泳法の味わい方や楽しみ方を示唆するなど、日本泳法の普及発展にも心血を注いだ人物でした。


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